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荒波による大地の浸食との戦い―名洗浜―

2013.07.12 Friday 18:30
銚子市名洗町の海岸付近は、狭い土地に多くの住宅が密集しています。そのことがとても不思議に感じられました。
ある日、たまたま郷土史研究家の講演会で、名洗地区の大地の浸食の話をされていました。そのとき、名洗町の名洗不動明王不動尊というところに石碑があるということを教わり、また、その石の表面に漢文で刻まれた名洗の歴史について、解説してくださいました。
後日、現地へ行き、その碑を見に行きました(写真)。確かに漢文で書かれた説明があるのがわかりました。それを和文に書き下すと最後に示したようになります。つまり、名洗浜では、荒波による浸食で、大地が削られていき、やむを得ず、集団で内陸側へ引っ越ししたことが記録されていました。
現在の名洗浜は、消波ブロック、ヘッドランド、離岸堤によって、荒波による浸食が緩和されています。しかし、昔は本当に苦労しながら生活をしていたことがよくわかりました。そして、現在、名洗の海岸付近では、狭い土地に多くの住宅が密集している理由がここにあるのではないかと思われました。

名洗
名洗不動明王不動尊にある石碑


(碑の書き下し分、関根昌吾氏の資料より)
高神村の西端を名洗浜といふ。此の地の沿岸、海波の浸蝕を蒙り、独り海老島・茅刈島を海中に余すのみ。而して虧陥益々劇しく、其の勢延びて垣牆、戸庭の間に及ぶ。之がため、居を移す者数十。区民乃ち心を協せ、相議して衣を縮き、口を節し、貲を積むこと数年、防捍甚だ力む。而るに其の害止まる所を知らず。是において区民相携え、傍近町村の有志の者を訪ね、資金を醵り、且村費を請ひ、以て之に補助せしむるも、此の如きは、年を累ねて終に効を成すなきなり。乃ち郡村の吏をして県費を以て救護するを哀請せしむるも許されず。区民の窮みは極まれりと謂うべきなり。明治丗五年、寺島賢之助、村長の職に就くや、深く之を憂ひ、高根巳之吉・高根安五郎・関根四兵衛・関根栄泰等と議し、又神田郡長と謀り、植田清右衛門所蔵の旧記録を按じ、沿革を詳らかにし、更に県庁に要請すること再三、日夜奔走し遂に許さる。丗六年、始めて工を起こし、水の衝に就き、甃石を羅列し、胸壁を築き、工事完く成る。区民是に因り、以て桑滄の変に遭ふを免がる。其の喜び知るべきなり。乃ち相謂ひて曰く、「吾が徒此の土に安んずるを得るは実に寺島君の賜なり。豈其れ黙然として止むべけん哉」と。是において、貲を損せ石に刻し、後世永く其の恩を忘るることなからしむといふ。
明治丗八年六月





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